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船員のために戦ったサミュエル・プリムソル / The sailor’s champion: Samuel Plimsoll (JP)

こちらは、英文記事「The sailor’s champion: Samuel Plimsoll」(2023年6月2日付)の和訳です。

 

19世紀から現在まで、限りなくシンプルながらも絶大なる効果で船舶の安全を守ってきたのが「プリムソル・ライン」です。

商船の船体にはプリムソル・ライン(国際満載喫水線)と呼ばれる標識がついており、どのような状況でも十分な予備浮力を保持できるよう、船積み可能な安全最大喫水が明示されています。この画期的な標識を考えたとされているのがサミュエル・プリムソルです。どこまで貨物を積んでもよいのか誰が見ても簡単に判別できるこの標識は、船員の安全確保という点で驚くべき効果を発揮してきました。

 

英国では1800年代前半、何十人もの船員を乗せて米国まで大西洋を横断する貨物船が多数ありましたが、貨物を過剰に積み、極めて危険な航海をしていました。こうした船はよく「棺桶船」と呼ばれ、チェックをほとんど受けないまま、過剰な保険金を掛けられていることもしばしばありました。  保険金が手に入るので、(乗組員全員の命と共に)船が沈んだときは船主たちは大喜びしたと一般的には考えられており、多数の貧しい船員が亡くなることとなってしまいました。

 

サミュエル・プリムソルはロンドンの石炭商でした。商売はあまりうまくいっていませんでしたが、商売をする中でロンドンの貧しい船員に共感するようになり、しまいには彼らの側に立つようになったのです。1867年、プリムソルは下院議員に当選。商船員の安全向上を目指して、船舶の安全積載に関する法案通過に力を尽くしますが、船主業を営む有力議員たちによって否決されてしまいます。

 

1872年には、『Our Seamen』を出版。英国の船員の暮らしぶりを解説するとともに、全体を通して海運業界を厳しく批判しました。さらにその翌年には、英国海運と船員の安全の現状を調査する王立委員会を設置するよう議会に発議を行うなど、船員の幸福を擁護する姿勢を急速に強めていきました。

 

ただ、その熱意を伝えようとするあまり反感も呼んでしまいます。一度は、議会で激怒して議長に拳を振りかざし、自分の主張に賛同しない他の議員たちを「この野郎」呼ばわりしたこともありました。どうやら議会全体としては、ポーツマスの港の貧しい船員よりも有力船主の利益のほうが大事というのが共通見解のようだったのです。

 

喫水制限を強制すべきと訴えるなど目標実現のために並々ならぬ熱意を見せたプリムソルでしたが、1876年に英国商船法が可決され、喫水強制は叶わず、積載可能な最大喫水を船体に標示させる幅広い権限が商務庁に与えられることとなりました。ただ、その喫水線は「プリムソル・ライン」として知られるようになったため、戦いの最終的な軍配はプリムソルに上がったと言えます。

 

その後1930年には、国際満載喫水線条約が締結され、プリムソルの唱えた改革が国際的な合意事項として形になりました。現在、世界中のほぼすべての商船にこの「プリムソル・ライン」の標示が義務づけられていますが、プリムソルは1898年にフォークストンで亡くなったため、自身の起こした改革を見届けることは叶いませんでした。

 

サミュエル・プリムソルは、大勢の船員の命を救った者として語り継がれるべき存在です。彼の熱意とひたむきさは、現代のリーダーにも響くものがあるでしょう。彼のことを決して忘れてはいけません。

 

 

 

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